絶えざる御助けの聖母の聖画(イコン)の歴史
三輪周平神父
6月27日は絶えざる御助けの聖母の祝日ですが、なぜレデンプトール修道会はこの聖画を大切にし、この絶えざる御助けの聖母の信心を宣教と司牧のために使っているかをお話ししたいと思います。多くの名前て呼ばれています。「受難の聖母」「黄金の聖母」「レデンプトール会士の母」、修道会が選んだ名前は「絶えざる御助けの聖母」です。またこれはピオ九世教皇がレデンプトール会士たちにマリア様を知らせるように要請した名前でもあります。この絶えざる御助けの聖母の聖画の作者は不明ですが、ギリシャ正教会のビザンチンスタイルの絵画法で木版に10C或いは11Cごろ描かれたもので、イコンとも呼ばれます。
原則としてイコン画家はイコンに自分の名を記さないそうです。聖書と同じで、イコンの製作過程の中に神聖なものが入り、神様の恩寵がイコン画家の心を照らして、彼の手を導くと感じられることによるのだそうです。聖母子像に、受難の道具(十字架と釘、槍と海綿)を運んでくる大天使ミカエルとガブリエルを加えたものです。この聖画は、救いに到る道としてのイエスを示す「ホデー・ゲートリア」(Οδηγήτρια ギリシア語で「道案内をする女性」の意味)の聖母像を発展させたもので、正教会においては「受難のテオトコス」と呼ばれています。テオトコス=神の母もともとはギリシア正教会のイコンがどうしてカトリック教会で崇敬されるようになったのでしょうか。これも非常にみ摂理のように思います。
伝承よれば、15C(1498年)ギリシャのクレタ島の教会においてこの「絶えざる御助けの聖母」の聖画が掲げられていました。ある商人がこの聖画を盗んだという話があります。彼は自分の物品の中に隠し、西方へ船で向かいました。1年後ローマに到着しました。彼はそこで重病にかかり、介護をする友人を探しました。死の間際、彼は絵の秘密を明かし、友人に教会に返すよう懇願しました。友人はその願いを叶えると約束しましたが、妻がその美しい宝物を手放したくなかったため、友人も約束を果たさずに亡くなりました。とうとう、聖母マリアは家族の6歳の娘に現れ、母と祖母に、絶えざる御助けの聖母の聖画は聖マリア使徒教会に安置しなければならないことを伝えるように言ったそうです。伝承によれば、多くの疑念や困難を乗り越えて母は従い、教会を担当する司祭に相談した結果、1499年3月27日、ローマのサンピエトロ大聖堂とラテランの聖堂との間にある聖アウグスチノ会が管理していた使徒マタイに捧げられた聖マタイ教会に安置され、その後300年にわたって同所で崇敬を受けました。ローマ・カトリックでは特にこの特定のイコンを指して「絶えざる御助けの聖母」と呼んでいます。
1798年フランス革命がおこり―フランス軍はローマに侵入し30余りの教会を破壊したということです。聖マタイ聖堂も1798年に取り壊されました。1863年2月7日イエズス会フランソワ・ブロジ神父のローマのある教会で絶えざる御助けの聖母についての説教をしました。
2年後1865年12月11日、レデンプトール会のモーロン総長と教皇ピオ九世と話し合いました。教皇様は総長の話に感銘を受けられ、自らアウグスチノ会の院長に書簡でレデンプトール会に絶えざる御助けの聖母の聖画を譲るよう求めました。聖アウグスチノ会の神父たちは聖画を譲ることを快く承諾されたそうです。1866年1月19日に移され、4月26日に聖画は教皇の望みで戴冠されました。それによって「絶えざる御助けの聖母」のイコンはレデンプトール会本部にある聖アルフォンソ教会で、一般の崇敬のために献呈されたことになります。この出来事をもって絶えざる御助けの聖母画が世界中に広がることの始まりでした。
マリアの「はい」に倣う――5月、平和への道を歩むために
アントニオ神父
5月は、古くから聖母マリアをたたえる特別な月として大切にされてきました。この月、私たちは立ち止まり、マリアの謙遜、勇気、そして神への揺るぎない信頼を思い起こすよう招かれています。力や自己主張が重んじられる現代にあって、マリアは、ゆだねることと愛のうちにこそ真の強さがあることを、静かに、しかし深く示してくださいます。マリアをたたえるとは、花や祈りをささげるだけではありません。マリアの「はい」神のみこころに心から開かれる姿に倣うことです。先が見えないときであっても「はい」と応えるその姿に倣うとき、私たちの心は平和の器へと形づくられていきます。
今日、世界では争いや戦争が続き、多くの国々や家庭が深く傷ついています。そのような時代だからこそ、マリアの存在はより身近に感じられます。マリアは十字架のもとに立ち、深い苦しみを知る母です。その悲しみは、戦火の中で涙を流す母親たちの嘆きや、暴力の中で生きる子どもたちの恐れと決して無関係ではありません。今、マリアに目を向けることは、現実から逃げることではありません。むしろ、思いやりと祈り、そして連帯の心をもって現実に向き合うことです。どれほど暗い状況の中にあっても、神のあわれみは働いており、愛は憎しみよりも強いマリアはそのことを思い起こさせてくださいます。
この5月、マリアをたたえるとは、マリアが示された平和を私たち自身が生きる決意を新たにすることです。口先だけでなく、生活そのものを通して祈ること復讐ではなくゆるしを、分裂ではなく理解を、絶望ではなく希望を選ぶことです。苦しむ世界を母であるマリアにゆだねながら、私たちもまた行動へと招かれています。正義のために声を上げ、苦しむ人を慰め、壁ではなく橋を築く者となることです。マリアをたたえるとき、私たちは本来の姿いやしを求める世界に光をもたらす神の子どもへと、より深く変えられていくのです。
「復活のいのちを生きる」
トマス頭島光神父
◆新しいいのち
主の復活、おめでとうございます。
イエスさまは私たちを罪から救うために復活されました。その復活の命は、今すでに私た ちの内で輝き始めています。もしイエスさまの復活がなければ、私たちの信仰は空しいものです。しかし復活によって、私たちは新しい命へと変えられました。たとえ地上の生涯が終わっても、神と共に永遠に生きる者とされたのです。
◆世界を変える
現代社会では、いまも多くの命が傷つけられ、人々は痛みや悲しみの中で苦しんでいます。この生きづらい世界を変えていかなければなりません。戦争やテロ、暴力を終わらせる必要があります。
「いつまで人は互いに傷つけ合うのか」
「神さま、なぜ平和を与えてくださらないのか」
――そう問いたくなることもあります。しかし、もしかすると平和をつくる責任は、私たち一人ひとりに託されているのかもしれません。
◆和解と一致
平和への道は、神が必ず備えてくださいます。私たちはそのことを信頼して、前へ歩み続けましょう。やがて答えが見えてきます。そのために、まず和解し、一致を目指しましょう。和解と一致こそが、世界を平和へと導く道だと信じています。
◆イエスと出会う
復活の朝、イエスは私たちの行く先に立っておられます。マグダラのマリアは復活したイエスを園丁だと思い、気づきませんでした。エマオの弟子たちも旅人の姿のイエスと話しながら、すぐには分かりませんでした。トマスは傷に触れるまで信じようとしませんでした。しかし、これら主イエスと出会った人は皆、心を変え、イエスに従う者となりました。
◆霊的直観
なぜ人は、復活のイエスをすぐに認識できないのでしょうか。イエスは今も生きておられ るのに、私たちはなかなか目覚めません。しかし、主と出会った人はもう「あなたは誰ですか」とは問いません。復活のイエスは霊的に自由で、時間や空間を超えておられるからです。私たちも心を純粋にしてイエスと出会い、新しい人へと変えられていきましょう。
◆永遠のいのち
「今を生きる」ことは大きな恵みです。神の子イエスのうちに注がれた命は、私たちにも 与えられています。復活の主と出会った私たちは、永遠のいのちを経験しました。もはや死も痛みも恐れる必要はありません。私たちは永遠に生きる者とされ、父なる神との永遠の交わりへ招かれています。そこから、私たちは新しい人生を歩み始めることができるのです。
ゆるしと和解の秘跡を受けるために
北部ブロック担当司祭 三輪周平神父
私たちは入信の秘跡という洗礼・堅信・聖体を受けることによって、神のいのちに生きるものとされました。私たちはこのすばらしい宝を、聖パウロが述べています「土の器」(2コリント4:7)と呼んだ弱い肉体の中に納めています。私たちは神の子としてのいのちを罪によって衰弱させてしまったり、なくしてしまうことがありえます。このような弱さをもった私たち人間をよくご存じの主イエス・キリストは、教会の中でいやしの秘跡と呼ばれるゆるしの秘跡で、私たちの罪をゆるし、病者の塗油の秘跡で力づけてくださいます。
悔い改めと和解の秘跡 罪とはどんなものでしょうか。それは、なによりも神が嫌われることを行うことです。別の表現をしますと、「神様に反抗する」ことです。そして、人間が罪を犯した結果、神様との交わりが断たれるのです。正確に言うと、「自分から神との交わりを断つこと」です。さらに、私たちが罪を犯すとき、教会との交わりも損なうことになります。私たちが、悔い改め、回心することによって、神はゆるしてくださり、神との交わりは回復し、それと同時に、教会との和解も成立します。(神との和解とは神との交わりを回復すること)
教会との和解 イエスは公生活の間、罪に苦しんでいる多くの人をゆるされ、同時に、再び共同体に迎え入れられるようにしてくださいました。これによって、イエスの奇跡に立ち会った人々は、イエスが罪をゆるす権能を持ち、同時に、その効果をも示してくださったことを賛美しました。キリストは、ペトロを頭とする12使徒たちにゆるしの権能をゆだねられたのですが、そのことは、イエスがペトロにおっしゃった言葉によく現れています。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)。この「つなぐ」「解く」という言葉は、教会共同体から退けられたり、迎え入れられることは、神との関係においても、退けられたり、迎え入れられたりすることを意味しています。ですから、教会との和解は、神との和解と切り離すことができないものです。
ゆるしの秘跡の効果 ゆるしの秘跡の目的であり、効果は、まず第一が神との和解であり、第二は、教会との和解です。大罪を犯すことによって、神との関係が断ち切られていた状態から、神の子としてのいのちを取り戻させ、神との愛の交わりに再び生きるようにさせるのです。ですから、ゆるしの秘跡を受けることによって、その人は「霊的に復活」するのです。罪の及ぼす影響のもう1つの面は、神の子同士である兄弟としての交わりを傷つけたり、壊したりする、ということがあります。ゆるしの秘跡の実施において、司祭は神の代理者であるだけでなく、共同体全体を代表します。共同体は、自らのすべてのメンバーの弱さを自覚し、その痛悔を聞いて心を揺さぶられ、その人と和解し、回心と人間的・キリスト教的成長の道を歩む人を力づけ、同伴します。「私は神だけに告白します」という人がいるかもしれません。確かにあなたは神に向かって「私をおゆるしください」ということができます。あなたの罪を述べることができます。しかし、私たちの罪は、兄弟と教会に対する罪でもあります。だから、司祭を通して、教会と兄弟にゆるしを願わなければならないのです」(教皇フランシスコゆるしの秘跡について2014年2月19日一般謁見演説)。ゆるしの秘跡は、この兄弟としての交わりを取り戻させてくれます。これは、とりもなおさず、この秘跡を受ける人をいやすだけでなく、その人が罪を犯すことによって傷つけた教会のいのちを取り戻させるという効果もあります。これが、教会と和解するということです。ゆるしの秘跡を受けることによって得られる恵みを神との和解と教会との和解のことだけ述べましたが、このほか永遠のいのちのきずなの回復、良心の平和と喜び、霊的深い慰めです。人が罪を犯して神との交わりを失った後でもう一度その交わりに復帰するのは、人々の救いを心にかけておられるあわれみ深い神の恵みの働きよるものです。自分自身のためにも、他の人々のためにも、この貴重な恵みを願う必要があります。
神よ、変えることのできないものを受け入れる平静さを、変えることのできるものを変える勇気を、そして、その違いを見分ける知恵を与えてください(ラインホールド・ニーバーの祈りから)。
今年の四旬節がキリストと出会い、「恵みの時」となりますようにお祈りします。
【参考文献】『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会
カトリック教会の統合の中で共に歩む
Petrus Faber Pattymangoe C.Ss.Rペトルス・ファベル・パティマンゴエ神父
教皇レオ14世を紹介する大塚司教の書簡の中で、教皇は「希望と一致の橋をかける牧者」であると説明されています。これは、勇気と尊厳を象徴する「レオ」という名の選択に基づいています。この名は当然、カトリック社会教説の父である教皇レオ13世を指針としています。In Illo uno unum(一つである方において、私たちは一つ)というモットーを通じて、大塚司教は、人類が民族や地位に関係なく、常に神において結ばれていることを教皇が強調されていると再確認しています。私にとって、このビジョンは、分裂に満ちた現代において、私たちが「前進し」「傷を癒やす」教会となるための挑戦です。大塚司教は、希望とは単なる楽観主義ではなく、私たちの生活の表面下で目に見えず働いている神の愛への応答であることを、常に意識するよう教皇レオ14世の精神を通して明確に示しています。したがって、現代のカトリック教徒としての振り返りと生活の指針は、次の3つの部分に分類できると私は考えます。
1. 真の「神の家」としての家庭
家庭は「人と出会い、つながりが生まれる教会づくり」の始まる一番小さな場です。家族の間での出会いは偶然ではなく、神の愛が宿る場所です。私たちは、苦しみや孤独の中にいる家族の一人ひとりが「見守られ、大切にされている」と感じられるように招かれています。家族が人間的な限界に直面したとき、神は私たちの苦しみと弱さの中にこそ、希望の種を蒔いてくださる、そのことを司教は思い出させてくれます。また、夫婦や親子関係においても、「真の赦しは悔い改めを待たない」という神の愛に倣うよう促されています。愛は、恵みとしてまず先に与えられなければならないのです。
2. 共同体としての歩み(シノダリティ)と多文化共生
地域教会にいる私たちにとって、大塚司教のメッセージは共同体生活への非常に具体的な方向性を示しています。私たちは「対話の輪」を広げ、外国籍の信徒、高齢者、若者、障がい者など、これまで声が届きにくかった人々に居場所を提供することが求められています。これを行う力は、共に祝うエウカリスチア(ミサ聖祭のこと)から得られます。なぜなら、エウカリスチアは単なる典礼的儀式ではなく、共同体が疲れ、傷ついたとき、「再び立ち上がる」ための力の源だからです。エウカリスチアの恵みは、ミサ聖祭のあとでの具体的な善意の行動として生きられなければなりません。
次に、大塚司教は、現代の若者の役割についても触れています。若者は単なる観客、即ち傍観者ではなく、「教会の未来を担う巡礼者」なのです。教会共同体は、彼らが抱く素朴な疑問や悩み、そして葛藤さえも、大切な信仰の歩みの一部として受けとめ、しっかり耳を傾けることが求められています。
3. 職場における平和と希望の使者として
私たちカトリック信徒は、社会の真ん中で働くことで、教会の最前線に立っています。競争や対立の多い職場だからこそ、力や攻撃ではなく「言葉」を選び、対話と共感を大切にしながら、希望へとつながる道をつくるよう求められています。私たちの仕事は、単なる個人の利益追求ではなく、正義、兄弟愛、そして共通善に根ざしたものであるべきです。また、職場で信仰の証し人となることは、他者に改宗を強いることではなく、誠実さと奉仕を通じて、神の愛によって変えられた人生を輝かせることを意味します。厳しく、冷たさや無関心が広がるような職場でも、私たちは「希望をつなぐ橋」として、また福音の光として、もっと人間らしい働き方や関わり方が実現できることを示すために遣わされています。
これらが、2026年という新しい歩みを始めるにあたり、大塚司教のメッセージから私が分かち合いたい3つの振り返りです。最後に、司教は私たちに、十字架の傍らで忠実であり続けた「希望の担い手」である聖母マリアと共に歩むよう呼びかけています。私たちカトリックの希望は、教会での祈りと、家庭での奉仕、そして職場での誠実な働き方が、ひとつにつながっていることが大切だという思いです。
2026年1月 トマス頭島光神父
◆新しい年の幕開けに
皆様、新年、明けましておめでとうございます。聖年の年も終わり、新しい年を迎えます。昨年の一年間を振り返って見ますと、それぞれ、色々な出来事があったかと思います。厄介な難しい問題や事柄や、新たな課題も分かってきました。共同で宣教司牧活動を展開するということが、そもそも何を目指しているのか、再考すべきかもしれません。既に、このことは担当司祭や修道者だけの問題ではなく、信徒も如何に共同して、この宣教司牧活動に関わればよいのか。まさにそのこと自体が問われているようにも思います。共同宣教司牧が目指すものは何か。再度、共に考え模索し、答えを出していくことが今年もまた課題となるでしょう。
◆教会活動として
私たちの教会が国際的な共同体となったのは、新しいことではありません。今そこに見えてくる様々な課題は、現在日本のカトリック教会共同体全体に共通する問題です。一つあげればそれは教会学校です。少なからずいる子どもたちの初聖体、そして堅信勉強会などは、既に多くの壁に遭遇しています。フィリピーナ、ベトナムの子どもたちのために教会ができることは何か。彼等のニーズに合わせた対応が様々必要になっています。昨年も何とか模索のうちに一年が終わりました。今年、どういう展開を見せるのか、課題は多岐にわたります。
◆希望の巡礼者として
私たちは教会家族として何をなすべきか。それを考えていくことが、今、私たちに与えられている希望の巡礼所としての課題でもあり、問題はそこにあるからです。新しい年の始まりに思うことが一つあります。それは「神さま、あなたの指し示す道」は、どこですか。福音を生きるとか、分かち合うとか言いますが、その先に見える風景は何ですか。ただひたすら愛の道を歩む。それだけですか。私たちの問いは続きます。
◆シノドスという道
昨年、私たちはキリストと結ばれる喜び、神との交わり、そして参加から宣教という事柄について、黙想してきました。昨年のシノドスが示す<霊における会話>の道は、いままさに始まったばかりです。交わり、参加が宣教のキーワードなのです。私たちが一人ひとり<旅する巡礼者>であるということ自体、すでに、人生という旅路にあって、たくさんの人との出会い、そして別れを経験します。そのなかでも大切な出会いがあるとすれば、それが教会共同体の中にあったのです。今もなお私たちはその教会家族としてつながっているのです。
◆新たな繋がりを通して
いま、私たちは、この教会家族に新たにつながってくる人々を知ったのです。それはささやかなものですが、教会にとっては希望となったのです。彼らは私たちと交わり、教会に参加し、そして喜び共にしてくれたのです。これこそは私たちが求めていた真の喜びではないでしょうか。この喜びが私たちに希望を与えたのです。福音はこちらから伝えるものだと思っていたら、向こうからやって来たのです。神の恵みは向こうから、私たちの処に来て小さいな花を咲かせたのです。いま、私たちは彼らと共に新たな歩み始めることになりました。交わりから参加、そして宣教へと新たなつながりは今始ったのです。
◆未来に向かって
新しい年の始まりにあって、私たちは一人ひとり信仰の喜び、人との交わり、結びつきを自覚し、しっかり心に留めおきましょう。それは「神は愛である」ということです。それが指し示すことの意味は、私の中にある愛の心と人への気持ちが、誰の心にも宿っているということです。たとえキリストを知らなくても、或いは知っていたとしても、同じ変わることのない、終わることのない神の愛が潜んでいて、時々にそれを垣間見る、ということです。
『しあわせは羊小屋の中にある ~2025年のクリスマスに向けて』
レデンプトール会司祭 ペトロス ファベル パティマンゴエ神父
アメリカのカトリック信徒であり、貧しい人々や社会的弱者のために尽力した社会活動家としても知られるドロシー・デイ(1897–1980)は、クリスマスの馬小屋について印象的な言葉を残しています。「主イエスが馬小屋にお生まれになったことを思うと、心から慰められます。私の魂もまた、貧しく、整っておらず、ふさわしくない場所のように感じられます。それでも、もし主がそのような馬小屋にお生まれになれたのであれば、どうか私の心にもお生まれくださいますように」と。
“I’m so glad Jesus was born in a stable. Because my soul is so much like a stable. It’s poor and in unsatisfactory condition—yet if Jesus can be born in a stable, maybe He can also born in me.”
イエス・キリストが馬小屋にお生まれになったという出来事は、神の現れが人間の準備や完璧さによるものではなく、むしろ私たちの弱さや壊れやすさの中にこそあることを教えてくれます。神の愛は、人間の不完全さを超えて、そこに寄り添い、現れてくださるのです。苦しみや不安のただ中に、イエスは私たちを立ち上がらせるために来られます。だからこそ、羊小屋は単なる象徴ではなく、神が訪れてくださる「ほんとうのしあわせの場所」なのです。
今年のクリスマスのテーマ「しあわせは羊小屋の中にある」は、私自身の信仰の歩みから生まれました。日本語の学びを終え、新しい任地での一年目を過ごしています。去年とはまったく違う環境の中で迎えるクリスマス。言葉や文化の違いに戸惑いながらも、私はこの弱さの中にこそ、神が働いてくださると信じています。私の心の状態こそが、まさに「羊小屋」なのです。
羊小屋は、汚れていて、狭く、寒い場所でした。しかし、そこにこそキリストは来られました。私の心も、生活も、弱さや罪を抱えながら、それでもキリストをお迎えしたいと願っています。
日本での司祭としての経験はまだ浅いですが、イエスが私に力を与えてくださると信じています。この弱さの中で、私はできるかぎりの愛と喜びをもって、ここで出会うすべての人々に仕えていきたいと思っています。私にとって、クリスマスは「強い人」のためではなく、「弱い人」のためにある祝祭です。羊小屋のような小さな場所に、神の大きな愛が現れました。私たちの心がどんなに不完全であっても、神はそこに来てくださいます。だからこそ、「しあわせは羊小屋の中にある」という言葉を胸に、今年のクリスマスも、神の愛と平和に満たされながら歩んでいきたいと思います。
アントニオ神父
Dear brothers and sisters, may the peace of the Lord Jesus be with you!
As we journey through the Year of Faith under the theme “Pilgrims of Hope,”
the solemn celebrations of All Saints Day and All Souls Day remind us of the profound communion that unites the Church—on earth, in heaven, and in purgatory. On All Saints Day, we honor the countless men and women who have gone before us in faith, shining as lights of holiness and witnesses of hope.
Their lives, though marked by trials, were anchored in trust in God’s promises.
They show us that sanctity is possible in every vocation and circumstance, and that our pilgrimage of faith is not walked alone, but strengthened by their example and intercession.
On All Souls Day, we remember our departed brothers and sisters who still journey toward the fullness of God’s mercy. Our prayers for them are acts of hope, expressing our belief in the resurrection and the transforming power of divine love. As Pilgrims of Hope, we are called to walk with confidence toward the eternal homeland where God will be all in all. United in faith and charity,
we carry forward the legacy of those who have gone before us—trusting that one day, by God’s grace, we too will join the saints in the joy of everlasting life.
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主イエスの平和が皆さんと共にありますように!
「希望の巡礼者」というテーマのもと、「聖年の年」を歩む私たちにとって、諸聖人の日と死者の日の厳かな祝祭は、地上の教会、天上の教会、そして煉獄の教会を結ぶ深い交わりを思い起こさせてくれます。
《諸聖人の日》には、信仰のうちに私たちの先を歩んだ数えきれない男女を讃えます。彼らは聖性の光として輝き、希望の証人となりました。試練に満ちた人生であっても、神の約束への信頼に根ざして歩んだ彼らの姿は、あらゆる召命と状況の中で聖性が可能であることを示しています。そして、私たちの信仰の巡礼は決して孤独なものではなく、彼らの模範と取り次ぎによって力づけられているのです。
《死者の日》には、神の憐れみの満ちるところへと旅を続ける、すでに亡くなった兄弟姉妹を思い起こします。彼らのための祈りは希望の行いであり、復活と神の愛の変容する力への信仰を表しています。
「希望の巡礼者」として、私たちは神がすべてとなる永遠の故郷へと、確信をもって歩むよう招かれています。信仰と愛に結ばれた私たちは、先に旅立った人々の遺産を受け継ぎながら歩み続けます。そして、いつの日か神の恵みによって、私たちも聖人たちと共に永遠の喜びにあずかることを信じています。
トマス頭島光神父
自然と私
人は、万物の創造主である神から、この世のあらゆる被造物すべてを任せられています。その意味は、目に見えるものだけではなく、目に見えないものも、すべてです。
人が目に見えるものだけを追い求めて、歩み始めるとき、そこから万物を造られた神から離れ、大切な事柄を見失いました。それは、目には見えない信頼であったり、喜ばしい愛の体験であったり、人が生きるにあたって、大切な事柄だったのです。
ときどきに自然は猛威を振るい、人々の暮らしを破壊し、命をすら奪います。しかし、人は、万物の創造主である神を恨みはしません。でも知るべきです。どんなに苦しい時でも、悲しさが襲っても、神はそこにおられる。神は私たちに恵みを与え続けておられるという事を。
人の務め
地球環境は、今や激しさを増し、人々の暮らしを圧迫しているかのように、私たちは見ています。しかし、本当に神が地球環境を乱し、私たちに反省を求めているとでも言いたいのでしょうか。地球が傷んでいるのは、神様のせいですか。
そもそも、自然を正しく治めるように、人が神から託されたのが今のこの地球環境です。環境を破壊してしまったのは、やはり、私たち人間でした。公害、汚染によって、川や海を汚し、動植物にまで被害をもたらし、結果、人の暮らしにも損害を与えた。まさに自業自得とはこのことです。
人の務めとは、もう一度ここで立ち止まり、自分たちの暮らしを見直し、よりよい方向へと舵を切ることです。どうすれば、人は自然と向き合って、共に生きる道を乱せるのか、思案が始まっています。
未完成の自然
人は、神からこの自然を託された時から、今日にいたるまで、いかにこれを完成させるのか、という大きな課題、使命を委ねられてきたのです。
今、ようやくその根本原理に気づいた人類は、新しい道を模索し始めたのです。いかに自然を再生していくのか。真剣に考えねばならないときが来ているのです。
人は、同時に自然の怖さと恐ろしさも知らされてきました。如何にこれを守り、自然の恵みをいただき、共に生きるか、その再生と共生の道を神に願いましょう。
共存、共生
今、私たちが考えるべきは自然との共存、共生です。自然を治める力を、人は託されているわけですから、襲い掛かる自然に対し、自らの暮らしを守ることだけに目を向けず、共に歩む道を探るべきなのです。
自然に対するのでなく、自然に耳を傾け、どうすればよいか、人は意図的に、答えを自然から導き出すことです。人は悪を生み出すが、自然はそうはしない。自分の頭で物事を捉え、意識して何かを考え、生み出すのが人で、自然と違い、想像して何かを作り出す知恵と理性を持っているのです。
つまり、自然を治める使命を持つ人は、自らをまず正しく統御し、自然の力をただ正しく悟り、共存共生の道を、切り開くことです。人は、心に秘められている真のあり方、生き方を選択することができるので、これによって希望に満ちた人と自然の共通の未来を実現することが可能なのです。
成長選択の道
自らを成長させ、善を選択する力があることを知るのは、人だけです。人だけが深淵の淵をのぞきこみ、自らが持つ欲望の対象を乗り越え、次に何をなすべきか選択することができます。これほどの自己選択の自由を持っているのですから、もはや元の欲望に満ちた罪の自分には、後戻りはできません。
善の神に目覚めたのですから、私たちは、これらの悪から抜け出し、神が示す約束の地に向うのです。今こそ、人は欲を断ち切り、善悪の境目を迷いながらも、しかし、真理への道を究めんと、前に進みましょう。愛と信頼の交わりの内に、キリストと共に成長して参りましょう。
三輪周平神父
今暑い時期ですが、私たちは聖年の期間を過ごしています。あと5カ月で終わります。
どこかに巡礼に行く計画をしている人や10月の巡礼を楽しみにしている人もいるでしょう。巡礼の目的は観光ではなく、全免償をいただくためです。皆さん免償はもういただいたでしょうか。心から罪を痛悔していても、重大な理由でさまざまな典礼の参加や巡礼や聖なる訪問ができない信者(とくに高齢者、病者、また病院や他の看護施設で働いている人々)は、同じ条件のもとに聖年の免償を受けることができると記されています。
共に歩んでいる信者と心を一つにし、自宅または自分がとどまらなければならない場所(たとえば、病院や看護施設)で主の祈り、信仰宣言、聖年の目的に適う他の祈りを唱え、自分たちの苦しみと生活の困難をささげることによって同じ免償の恵みが受けられます。
通常はゆるしの秘跡を受けること。ご聖体を拝領すること。そして教皇様の意向のために祈ることの三点です。また慈善と償いのわざがあります。聖年の目的は信者の回心と罪のゆるしによる霊的刷新と言われています。
特に全免償を受けるためにはゆるしの秘跡を受けることが必要です。罪を告白する前に、良心の糾明、痛悔、それに生活を改める決心など、煩わしいと思うかもしれません。しかしここで、司祭と話すことよりもイエス様と出会うということを考えてみたらどうでしょうか。
前回のいつくしみの特別聖年の時に話された前教皇フランシスコのことばがあります。「イエスは忘れます。イエスには特別な忘れる能力があるのです。彼は忘れ、あなたにキスし、あなたを抱きしめ、ただこう言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)」。
また「主は決してゆるすのに疲れを覚えません。絶対に!私たちの方が彼のゆるしを求めるのに疲れてしまうのです。ですからイエスにゆるしを願うのに疲れを覚えない恵みを願い求めましょう。」(教皇フランシスコインタビュー本『神の名はいつくしみ』より)フランシスコ教皇はゆるすという言葉ではなく、イエスには特別な忘れる能力があるというフレーズで話されました。聖年の残りの期間を通して神様のいつくしみに触れ、希望をもってイエスと共に歩みましょう。
トマス頭島光神父
◆証しすること 7月は「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の記念日から始まります。彼ら殉教者は日本の白鯨の暦の中でも末期であり、徳川家康の時代に遡ります。年代的には1603年から1639年にかけて日本各地で殉教した日本人司祭・修道者・信徒たちです。特にペトロ岐部はローマまで歩いて行って司祭になった初めての日本人でした。京都と深く関係のある殉教と言えば、1619年10月6日に起こった元和の大殉教があります。この殉教者の52名のうち、何と11人が13歳以下の幼い子どもたちと言われています。
◆信仰を生きる このことはまさに私のこの生涯を、そしてこの命をかけて実践することであり、私たちキリスト者一人ひとりの使命であります。ですから、ちっと片手間にとか、いい加減に遂行できるようなことでは、到底ありえません。それでは、一体どうするのか。考えればきりがありません。そこで、精々、想像力を働かせてみましょう。まず自分たちの信じる神さまが、どれほど偉大であるか、またどれほど大きな恵みをもたらしてくださるかを、できうる限り、可能な限り、思い起こしてみることです。すると、実に私たちが信じる神様は、単に私たちの罪を赦された、ということだけでなく、悪の誘いから解放し自由にしてくださる、と言うわけです。そして、さらに神とは永遠の命をお与えになるお方なのです。このように神を想像しながら、死から命へと過ぎ越していく救い主キリストの声に聞くことです。
◆「心」を見る方 神は、私たち愛する者を、良いか悪いかでは見ません。排除、差別、罰を与える神ではなく、愛そのものである神は、人の“心”をご覧になるのです。私たちの弱さを知っておられ、それを慈しまれ、愛されるお方なのです。愛するひとり子、イエスを私たちのもとに送って下さるほど大きな愛を持つお方、神は、私たちを罪から贖い出すために、十字架にかかってくださるお方でした。自らの命を捧げ、復活を通して永遠の命をもたらされたのです。これは、まさに比類なき愛の証です。
◆聖霊と聖体 これらは私たちの信仰と愛を生かす力であり、聖霊は、キリストから来る「命の息」であり、私たちの信仰を生かし支える希望です。聖体をいただくことで、私たちは生ける神の命の糧をいただき、霊的において成長していくのです。最後の晩餐を記念して行われるミサは、まさに聖体祭儀です。ですから、これは単なる記念行事などでは決してなく、イエス自らがその命を私たちのために与えられたという愛の深い証しなのです。それに応えて、私たちもこの愛の記憶をもとに、生き続けるよう招かれています。
◆福音宣教のとき それは私たちの手に委ねられています。イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じました。同じように、私たちもこの喜びの福音を伝えます。福音宣教の使命は、教会に属する一人ひとりに託されています。誰一人、取り残されてはいません。私たちは一丸となって信仰を生きます。神の愛をもって行動するなら、神によって愛の奇跡はそこに現れることでしょう。
京都北部ブロック担当司祭 三輪周平神父
今年度の京都教区済州「聖母の夜と聖地巡礼」が5月21日から24日の日程で行われました。わたくしは同行司祭として参加しました。済州教区出身のイ・ウォンギュ神父様(滋賀ブロック)が引率責任者として合計14名が参加しました。関西空港から出発しましたが、初日は済州教区長のピオ・ムン司教様による我々歓迎の食事会から始まりました。三日目のクアンヤン教会訪問でも温かい歓迎を受けました。
一つうれしかったことはチェジュ教区の小教区で働いている絶えざる御助けの聖母修道女会のシスターに会ったことです。私がレデンプトール会の司祭と言ったら喜んでくれました。シスターの本部はソウルにありますが、韓国のレデンプトール会とシスターの会とは霊的な面で深くつながりを持っています。それからこのクアンヤン教会は絶えざる御助けの聖母にささげられた教会でした。イコン画ではありませんがオルガンのそばに大きなマリア様の絵がありました。またミサが終わっても7・8人の信者さんがマリア様の前で祈っている姿が印象的でした。
今回の巡礼のメインは二日目の夜、イシドル三位一体恵みの丘で行われる「聖母の夜」野外ミサでした。内容は毎年変わるようですが、今年のミサではロザリオの祈りから始まり、この祈りの間、司教様先頭で5人ほどのローソクを持った信徒が会場をゆっくり廻りました。また司教様の説教の後、共同祈願の前に10分ほどの寸劇がありました。テーマは1948年4月3日に発生した4・3事件によって島民の家族が殺され、悲惨な状態になった家族が、時を超え愛情をもって互いに支え合い希望をもって歩む姿を現すことをテーマにした劇でした。イ神父様から通訳していただいたので助かりました。ミサが終わり近くにある宿舎の黙想の家に到着したのはもう十時を過ぎていました。私たちが宿泊した黙想の家はこのミサのために多くの信徒が宿泊していました。中にはソウルから来ている夫婦もおられました。翌日は恵みの丘にある等身大の像を見ながら十字架の道行きの祈りを皆でゆっくり歩きながら行いました。
とてもリアルでイエス様の苦しみが自分の心に突き刺さる思いで14留行いました。今回の巡礼では韓国の殉教者聖アンドレ金大建(キムデゴン)そして韓国の最初の殉教者福者キム・ギリヤンを訪ねました。
最後に今回の巡礼で感じたことは、この済州島は日本の四国の香川県ほどの面積だそうですが、信徒は約5万人いるそうです。今回の「聖母の夜」のミサは信徒2千人、司祭40人ほどの参加者だったそうです。以前より少なくなっているとはいえ、日本に比べたら規模は大きいです。韓国の教会の真似はできませんが、信仰の面で学ぶことができました。また今年は京都チェジュ姉妹教区交流20周年です。チェジュ教区から2名の司祭が派遣されています。韓国チェジュの歴史を学びながら韓国の教会を知り交流を深めたいと思います。
トマス頭島光神父
◆新しいいのち ご復活、おめでとうございます。復活の主日から聖霊降臨までの50日間は、キリストの復活をたたえて、歓喜のうちに過ごすときです。季節もまた春本番となり寒い冬から一気に暖かな日々が続きます。森の木々は青々と繁り、野山は草花に満ち溢れます。まさに復活にふさわしい新しい命の芽生える時節です。私たちは毎年、このような同じ風景を見ているのに、新たな感動を呼び覚ます今日この頃です。
◆復活信仰 イエスの復活なしに私たちの宣教は虚しい。これはパウロの言葉です(Iコリ15:14-15)。パウロによれば、復活なくして宣教も信仰もまた意味がありません。私たちの信仰は、まさにこのキリストの復活信仰に基づいているからです。言い換えれば、私たちのこの命は、この世での生涯を終えた後も、復活して神と共にあるのです。これをなおも強く主張してやみません。復活こそ真理です。イエスの復活こそが、人の命を清く尊いものとし、かつ聖なる者へと変えたのです。神への信仰と人への愛が今もなお不変であり続けるのは、このキリストの復活信仰によるのです。
◆世界を変える 現代世界は、今もなお混とんとしています。さらに生きづらい社会状況が延々と続いています。絶え間ない戦争とテロの悲劇、そして暴力が人々を苦しめ、互いに傷つけあう状況が止まりません。一体いつになったら、真の平和が訪れるのか。人はいつまでこの苦しみ味わい続けるのか。どうして、神は、平和という答えを与えないのか。それは私たち一人ひとりに任せられているからでしょうか。平和という答え、和解と一致への道筋、それはすべて神が用意してくださることなので、それを信頼して、ただ私たち一人ひとりは、それに向かって歩み続けることなのでしょうか。その答えに到達し、喜びを得るのは、そのように世界を変えるのは確かに私たちなのでしょう。
◆復活者との出会い さて、復活のイエスを語る福音は、あたかも主が死から生き返ったかのごとく語ります。しかし、それは神秘に満ちたものです。復活の主はエマオの弟子たちと共に歩みます。自らの傷を、疑うトマスに触らせます。体を持っていることを知らせるため、魚を食べて見せます。それにも拘らず、それは以前の肉の人、イエスの姿とは違うものでした。弟子たちは、初めそれがイエスとは知りません。不思議な事に、イエスだと見分けることができないのです。それはあのマグダラのマリアもそうでした。園丁と思い違いをしています。ガリラヤ湖畔でも弟子たちはそれと気づきますが、最初は分かってはいなかったのです。
◆内的直観 なぜ、イエスと分かるのに時間がかかるのでしょう。イエスはいまも生きてそこにおられることに、どうして人は目覚めないのでしょう。復活の主は、いまもなお神秘のベールに包まれたまま。あの弟子たちは食事の席に共にあっても、イエスに「あなたはどなたですか」と問い質すことができません。つまり、直観的にはすでにイエスだと知っていてもです(ヨハ21:12)。復活の主はもはや現実の身体性から自由な存在であり、かつ時間と空間を超え出て生きる存在なのでしょう。人はもはや直観でしかイエスを認めることができないのです。これこそ新しい人、復活の主なのです。
◆永遠のいのち これを生きることが、今ここに提示されています。これは特別のお恵みであって、イエスのうちに注ぎ込まれ、私たちの前に現れたのです。私たちは、すでにこの復活者と出会いました。永遠のいのちを経験したのです。復活の命に預かる恵みを私たちも得たのです。そこには、もはや死はありません。痛みも苦しみも私たちの前から取り去られました。私たちは永遠に生きる者へと変えられたのです。父なる神との永遠の命の交わりに内に招き入れられているのです。父なる神は、イエスを真の人として与え、人は新しく生き直すことができることを、イエスの復活によって、はっきりとお示しになられたのです。
北部ブロック担当司祭 三輪周平
「希望をもってともに歩んでいきましょう」という教皇様の四旬節メッセージではじまった今年の聖年における四旬節も四月から後半に入りました。「ともに歩む」ことへの回心から今度はイエスキリストのご受難ご死去を黙想し、主の復活へと心の準備をして行く時です。そして13日からはいよいよ聖週間が始まります。主の過越の神秘を中心とし、イエスキリストの救いの業全体を記念する一週間です。
歴史的に見ますと、主の過越しは、一晩で記念するには内容がありすぎたため、三日がかりで死、埋葬、復活と記念していくようになりました。やがてこれが、主の晩さんの出来事から始まる「聖なる過越の三日間」の典礼と呼ばれるものになり、エルサレムから広まっていったようです。おそらく火曜日に行われたらしい最後の晩さんが木曜日の晩に祝われるようになったのは、この典礼実践によるものです。
イエス様は自分のすべてをあらゆる人の救いのために提供され、父である神にささげました。受難と死を通して、復活の栄光に移って行きました。一生涯にわたる奉献でした。教会が行うキリストの生涯を一年を通して祝う暦を通してこの救いの出来事が記念されていきます。待降節に始まり、主の降誕、主の公現に続きます。特に主日の典礼にです。そして主の過越を盛大に祝うのが、聖週間です。とりわけ聖なる過越の三日間、復活徹夜祭です。イエス様の生涯は、ひたすら神と人への奉仕に明け暮れました。神の奉仕という意味での礼拝、典礼でした。その受難と十字架上の死は、人類の救いのための奉献として、唯一の完全なものとなりました。それは父である神に受け入れられ、父は子を復活させられました。
主の過越を毎年盛大に祝うことは、私たちキリスト者の年中行事の中でも大切な務めではないでしょうか。その頂点にふさわしい神奉仕となるのが、聖週間、聖なる三日間、復活徹夜祭の典礼です。みんな夜行われますので、私は無理ですと思われる方が多いかもしれません。教会で典礼を行っている同じ時間に心を合わせて、み言葉を個人的に読むこと又祈ってくださることによって実際典礼を行っている者にとって大きな力になると思います。これも一つの奉仕です。「共に祈ること」の大切さを深く味わいたいと思います。
トマス頭島光神父
◆四旬節とは? 今年の四旬節も、いよいよ、3月5日の<灰の水曜日>から始まります。そこで、4月17日聖木曜までの期間、いかに過ごすべきか、共に考えてみましょう。まずはこの<灰の水曜日>ですが、なぜ水曜日から始まるのかと言えば、聖土曜日から日曜を除く40日を遡って数えると水曜日になるからです。つまり、40日という数字に意味があるというわけです。言うまでもなく、それは、悪魔の誘惑を受けるイエス様の40日間を思い出せます。イエスが荒野で過ごした期間を思い起こしながら私たちも苦難を耐えることです。また旧約で言えば、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出し、約束の地に辿り着く期間が40年でした。40という数字は苦難と試練の期間だという事になります。40は人にとってもまた神のとっても試練と試み、苦難と忍耐の期間なのです。
◆苦しみを担う その通り、神もまた人のために嘆き苦しまれ、そして死なれました。本来なら、神が人のために苦しみや悲しみを味わうことは考えられません。しかし、神は人を愛し抜くために苦しまれ、またその罪のゆえに痛みを担ってくださいました。それは、御子イエスの受難を見れば一目瞭然です。イエス様の十字架の苦しみは私たちの罪、咎のため、人の罪のゆえに苦しまれ、悲しまれたのです。それが私たちにも果たしてできるでしょうか。人のために泣き、苦しむことなどできようにもありません。しかし、主イエスは私たちのために死ぬことさえ惜しまないお方でありました。人の罪を我が毎のように背負い、その痛みを担われることができるお方は、まさにイエス様の他には誰もいません。私たちの罪の弱さのために十字架にかかって下さいましたから、私たちは新たに生きる者とされたのです。そのことを黙想する40日としたいものです。
◆新しく生きる 私たちはこの試練と苦難の40日後に、復活の恵みに預かることになります。それは大きな喜びの時です。私たちはもはや罪から解き放たれ、永遠の命の喜びに満たされるからです。ですから、新しくキリストの聖霊を受ける志願者たちが復活徹夜祭にあずかることは最もふさわしいことです。たとえ洗礼者がいなくとも、洗礼によって恵まれたこの喜びを再度思い起こし、新しく祝別された洗礼の水を受けることができます。新たに生き直すこの喜びの背景には、自ら果たした節制と回心の業があります。新しく生きるこの喜びは、人間側の回心と節制という努力の賜物でもあるのです。
◆愛の業 これらの回心の業は、まず他者への施しに始まります。マタイ福音書の第6章の初めに「人の前で善業をしないように」と勧めている通りです。施しをするときには「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われます。どういう意味でしょうか。善いことをすると人は誰でもいい気持ちになるでしょう。良いことをしたからでしょう。しかし、すでにそうした気持ちが左の手にも伝わってしまい、高慢な気持ちが芽生えます。一体何のために良いことをしたのか、そのことに気づくべきです。決して善業は自己満足であってはなりません。どんなに素晴らしい善い事を成し遂げたとしても、私たちの言うべきことはただ一つです。「私はただ為すべきことをしただけです」(ルカ17;10)と。そうです、これが愛の業なのです。
◆祈りの仕方 祈りも施しと同じくらい大切です。謙遜かつ謙虚に愛の業を成し遂げた後は、心から祈りましょう。祈りは、勿論、人に見せるためにするものではありません。街角に立って祈ったり、自分の前でラッパを吹いたりなどしないものです。もしそんな祈りなら、その人はすでに報いを受けている、とイエスは言います。それでは、私たちはどう祈るのか。言われている通り、「隠れた処におられる神に祈る」(マタ6:6)のです。どういう意味でしょうか。これも施しと同じで、祈りは人に見せるものではありません。神に祈るのです。そもそも、神様は人には何が必要なのかを知っています。だから、必要なものを、必要な時に、必要なだけ与えてくださるのです。私たちはそんな優しい神様ですから、ただ感謝と賛美の祈りを唱えるのみです。まさにこうしてあの<主の祈り>が教えられ、私たちは毎日、この祈りを唱えて祈るのです。復活の時、静かな心で主の祈りを唱える自分を神様に見てもらえるよう、この40日、祈り続けましょう。
担当司祭三輪周平
今月3日は福者ユスト高山右近殉教者、5日は日本二十六聖人殉教者を祝います。それで今月はこの殉教者について取り上げてみたいと思います。日本二十六聖人殉教者は血を流した殉教者、高山右近は死なない殉教者と言われます。高山右近は死なないのになぜ殉教者かと思われる方もいるかと思います。高山右近が殉教者として列福される意味について、2016年2月に帰天された名誉司教、サレジオ会士であられた溝部脩師の手記を参考に見てみたいと思います。「どうして殉教者なのかということが、その一番大事なことです。証聖者として当初は申請されたのに、どうして今殉教者として申請されることになったのか。殉教者のほうが列福されやすいという単純な、ある意味で作為的な方法で列福を急いだからと、解釈される恐れもあります。その実は、右近が殉教者であるということに意義があるのです。
殉教者としての高山右近は、特別な意味をもっています。殉教者というと、生々しい処刑を想像しがちです。しかし右近の場合は、いくら望んでも死による処刑は叶いませんでした。秀吉の宣教師追放令(1587年)の折、いつ殺されるか分からないまま、彼は殉教にあこがれました。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノ神父が再度日本を訪れたとき(1590年)、右近は同神父に、キリストに倣うため、殉教を望んでこの世を捨て修道院に入る希望を表しました。ヴァリニャーノ神父は、これは悪魔の誘惑として、その考えを捨てるように勧めたのでした。
日本26聖人殉教のときも、右近は殉教を切望しました。しかし、それは叶えられませんでした。家康によって国外追放にあったときも、絶えず死の危険にさらされていたこともあり、右近はキリストのために喜んで死ぬことを覚悟していました。しかし、この度もマニラへの流刑ということで、死ぬことは叶いませんでした。神は、彼の肉体が即座に死ぬということをお許しになりませんでした。キリストのために勇んで死ぬとの彼の想いを、無残にも何度も打ち崩したのです。それは生きるも死ぬも、すべて神の手の中にあることを分からせるためでした。
これが分かったのは、マニラに流される前に、ペドロ・モレホン神父の指導で「霊躁」を長崎で行ったときでした。実に「長い忍耐がいる殉教」(申請書)、このことばが右近の殉教にあてはまることばです。死のうと思っても死ねない殉教とでも申しましょう。その代わりに長い年月、死ぬことを要求した殉教だったのです。辿りついたのが、キリストへの信仰のために国を追われ、そこでやっと喜びのうちに自分の魂を神に返すことでした。長い殉教がやっと終わったのです。
殉教は、生も死もすべて神の手に任す生き方です。キリストに倣って自分を捧げつくす生き方です。これは現在の日本教会に大きな示唆を投げかけています。今は、キリストへの信仰のために殺されることはありません。しかし、キリストを信じた者は、毎日の生活の辛苦を喜んで耐えて生きることを誓っています。毎日の生活の中で生きるも死ぬも、すべてを神に委ねる生き方です。それこそ「長い忍耐がいる殉教」を私たちに要求しているのです。神は、右近を通して、現在の日本教会が、教会の人として生きるべき姿を提供しています。右近の列福は、世界の教会に、殉教とは何かを示唆する意義ある列福になりえます。」(高山右近に見る殉教-溝部脩名誉司教)
高山右近と日本二十六聖人の共通した望みは神のみ心に忠実に従おうとしたことです。四旬節の始まる前の2月、殉教者の心で回心の準備をしてみてはいかがでしょうか。
トマス頭島光神父
◆希望のしるしを生きる 新年あけましておめでとうございます。今年は聖年の年、恵みの年です。ですから、その間に私たちは、貧しい人、苦しむ人のために希望のしるしとなるのです。だから、ただ「大丈夫だ、安心しなさい」だけの励まし、慰めの言葉では足りません。私たちはうわべの言葉だけでこの希望を持ったのではないからです。それでは、それはどんな希望ですか。またそのしるしは何ですか。それは私たちの中にある神のみことば、救い主イエスの御体です。私たちキリスト者はみなこの恵みに預かっているのです。だから、そのままでも希望のしるしなのです。あなたのほうから歩み寄りましょう。そうすれば、それが希望のしるしとなるのです。
◆希望を与える 病気の人は体だけではなく、心も痛み苦しんでいます。見舞いに訪れて来てほしいのです。思いやりを持った優しい言葉に出会いたいのです。心がそれで少しでも和らぐなら、潤いが生まれるなら、それは大きな恵み、喜び、感謝となって戻ってきます。まさに希望の業がそこに実現したのです。また若者たちも希望を夢見続けています。失望している若者を見つけたら飛んでいって休ませてあげましょう。夢をもって日本に移住してきた外国籍の方々のたとえ一人であっても欠けることがあってはなりません。彼らも兄弟姉妹だからです。移住者、難民など外国籍というだけで差別されたり排斥されたりしてはなりません。教会はいつも彼らの味方なのです。
◆みんなが兄弟姉妹 高齢者が持っているその知恵と知識、さらに経験値は尊敬に値する価値があります。決して軽んじたり、見捨てたりしてはなりません。彼らに聞くことです。彼らの声に耳傾けることです。忘れてはいけません。私はまだ何も知らないということを。それを聞き分けられるなら耳を傾け聞きましょう。神の言葉を聞けなくなったら気を付けましょう。
◆希望の錨をおろす 私たちの知っている希望は欺くことがありません。錨を持っているからです。波間を漂うどんな船でも、この錨をもってしっかり留め置くことができるからです。この錨こそ、キリストそのものであり、神のみことばだからです。神のみことである錨だからこそ、神の愛にしっかり留まれるのです。私たちはそれでキリストへの信仰を揺ぎ無く保つのです。イエス様は錨となって、私のために海の底に沈んで下さり、私たちを神の愛に結びわせて下さるのです。例え死をもってしても私たちは神から引き離されません。希望の絆で神と結び合わせる。それがキリストなのですから。
◆救いへの確かな希望 私たちが希望しているのは何ですか。それは主イエスとの深い愛の交わりの中に入ることです。地上の生涯を終えた後も神と共にあること。それが私たちの救いへの希望なのです。すでに亡くなった人々のために祈るその救いの希望に預からせるためです。私たちのこの償いの祈りは尽き果てることがありません。ましてや、すでに亡くなった人々は祈る術がありません。だから、その方々のために私たちが祈るのです。<聖徒の交わり>のうちに私たちを一つに結び合わせる力が、この取り成しの祈りです。この祈りの力によって免償が与えられ、神の内に満ち溢れる恵みが得られます。
◆神の憐み 免償は神の憐みの心の充満です。限界を知らない神のゆるしは、これで頂点に達します。私たちの罪の傷と記憶は、この神のゆるしによって完全に清められるのです。教会が差し出すこの免償は私たちの罪の痕跡をも取り除き、完全に癒し、清める恵みの賜物です。この満ち溢れる恵みのゆえに、私たちはこよなく人を愛し、神を愛する者となるのです
主キリストの誕生を準備する待降節が11月30日の前晩の祈りから始まります。今年の待降節はいつもと違っています。それは12月24日から始まる聖年を準備することでもあります。聖年については先月号の教会だよりで頭島神父様が詳しく伝えてくださいました。今年2024年は聖年を準備する「祈りの年」ということです。待降節は主キリストを迎える準備をするときですが、今年は特にこの恵みあふれる聖年に備えられるように心を込めて準備したいと思います。ご存じのように待降節は二つの性格をもつ準備の期間です。一つは主キリストの受肉の神秘を祝うクリスマスの準備、そしてもう一つは主キリストの再臨を迎える準備です。この雰囲気は12月16日まで続きます。私たちは約二千年前に神の子が人間となった受肉の神秘を祝う準備をしながら、最終的には主の再臨に向けて準備することを心掛けます。またこの待降節の間には様々な伝統行事やシンボルがあります。よく知られているシンボルの一つにアドベント・キャンドル(4本ローソク)があります。この4本のローソクは待降節中の4つの主日を意味しています。このアドベント・キャンドルの意味を思いめぐらすことは、待降節とは何かを考えることにつながります。待降節の間主日毎にローソクの火を1本ずつ増やしていきます。主日毎に光が増えて行きます。1本目のローソクは「預言者のローソク」と呼ばれ、「希望」を表しています。イエス・キリストは旧約聖書の預言の成就としてお生まれになった私たちの希望です(イザヤ9:5)。二本目のローソクは「天使のローソク」と呼ばれ、「平和」を表しています。イエス・キリストの御降誕を告げたのは天使です。天使たちは旧約聖書の詩編のことばから「地には平和」と賛美しました(ルカ福音書2:8~20)。3本目のローソクは「羊飼いのローソク」と呼ばれ、「喜び」を表しています。イエス・キリストの御降誕が最初に告げられたのは羊飼いたちに対してでした。羊飼いたちは飼い葉桶に寝かされている幼子を見出し、喜びに満たされました(ルカ2:8~20)。この日の典礼の色は喜びを表すバラ色を使うことができます。4本目のローソクは「ベツレヘムのローソク」と呼ばれ、「愛」を表しています。神の愛の現れであるイエス・キリストが生まれた場所はユダヤのベツレヘムでした(ルカ2:1~7)。 ところで、私たち自身もローソクにたとえることができます。ローソクはそれ自体では灯りを灯すことはできません。ローソクに灯りを灯す人と火が必要です。私たちも同じように永遠の光であるキリストは私たちのところに来てくださり、私たちがもっと輝くようにしてくださいます。私たちが世の光となるように先に光として私たちを導いてくださいます。「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)。また同時に「わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」(ヨハネ15:5)とも言ってくださいます。クリスマスのシンボルをマリア様のように思い巡らしながら、キリストに信頼して、希望のうちに共に楽しいクリスマスを準備して行きましょう。
◆聖年の扉 11月は死者の月であり、典礼的には終末の時です。この時節に、私たちはキリストの再臨を願いつつ、死者のために祈ります。既に多くの方々が生涯を終え神様の身元に召されていきました。私たちもいずれ天の国の父のもとに旅立ちますが、いままだ為すべきことが与えられています。この世に生き残っている私たちが為すべきこととは、まずは死者のことを思い起こし祈ることです。来年、私たちは聖年を迎えます。聖年の扉がバチカンで今年のクリスマスの夜に開かれ、キリストによる救いの確信を再度、心に呼び覚ます新たな始まりとなるでしょう。
◆希望のしるし 現代世界はまだ多くの所で忌まわしい戦争を続けています。日本でも強盗殺人事件が各地で頻繁に起こり、人々の苦しみ。悲しみは増幅しています。いつまで、これらの悲惨な出来事は続くのか、いつ終わるのか。希望は遠のくばかりです。そんな折、聖年の大勅書「希望は欺かない」が出されました。私たちはそれでも諦めません。キリストによるこの希望は決して欺かない。なぜなら、恵みに満ちた神の慈しみから溢れ出ているからですと、教皇様は書くのです。この言葉は真実です。
◆巡礼教会 教皇様は聖年の免償の賜物について、既に2015年のいつくしみの特別聖年の際に、この賜物を受けることの大切さを諭されました。この通常聖年中もまた免償のたまものは有効です。「聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は…全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます」と勅書が語る通りです。私たち信者は<希望の巡礼者>となって、巡礼教会をめぐり祈りを捧げましょう。聖地巡礼はもとより、ローマの四大聖堂(サンピエトロ、ラテラン、サンパオロ、サンタマリアマッジョーレ)、その他司教の指定する司教座聖堂及びその他の聖堂を訪問しましょう。実は、来年、私たちの教会である宮津聖ヨハネ天主堂と福知山教会の聖堂は、京都教区の巡礼教会として北部ブロックより指定されます。
◆免賞の賜物 それでは免償のたまものとは何でしょうか。免償はゆるしの秘跡と密接な関わりがあります。罪を告白すれば罪が赦され、私たちは赦免された罪による有限の痛みと苦しみを完全に打ち消すためにこれを恵みとして受け取るため、愛の実践、慈悲の業、その他様々な利他的償いの業に生涯励まねばなりません。そうすることで古い私は脱ぎ去られ、新しい人となるからです(コロサイ3章9-10節、エフェソ4章24節参照)。日本語に「罪滅ぼし」と言う言葉がありますが、その言葉通り、善業をなすことで過去の罪の償いを果たすことができるのです。聖書に「私の選ぶ断食とは何か、悪による束縛を断ち、軛の縄目を解いて虐げられた人を解放することではないか」(イザ58章6節)と言われていることと同じです。
◆慈善と償いの業 私たち信者は皆、神様から愛されています。キリストの十字架の業によってあらゆる罪のゆるしを得たのです。だから敬虔なる祈りと愛の実践によって信仰の御業を果たすことが求められます。教会からいただいた免償は、同時に死者のためにも適用されます。煉獄の霊魂のために愛の業を捧げるなら死者のための全免償を受けることができるのです。つまり、地上での生涯を終えたすべての人の罪が清められ、イエスの死と復活の恵みに預かり、隠された罪科から完全に解放されるのです。そのために私たちは死者のために祈るのです。こうして、聖年の免償のたまものは、その祈りの力によって先に召された兄弟姉妹のために満ち溢れる神のいつくしみとなるよう定められているのです。
◆罪深い女をゆるすイエス 自分が罪深い者であることをよく分かっている一人の女性が、あるファリサイ派の家に入って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、…その足を涙でぬらし、…髪の毛でぬぐい、その足に…香油を塗った」ルカ7章38節)とあります。イエスはこの女の行動をよく見て「多く赦された者は多くを愛する」(ルカ7章47節)と言われました。神の愛と慈しみとそしてゆるしに、愛をもって応えたこの女は、自らの罪の償いとしてこよなく愛を実践したのです。私たちもこれに倣うことができますように祈りましょう。
担当司祭 三輪周平
10月に入りましてやっと朝晩涼しくなり秋らしく過ごしやすくなりました。これから始まる行事の為祈りが忙しくなります。今月の典礼の暦は、私たちになじみの深い聖人、幼いイエスの聖テレジアおとめ教会博士(リジューの聖テレジア)、アシジの聖フランシスコ、アビラの聖テレジアおとめ教会博士(大聖テレジア)、聖ジェラルド・マイエラ、福音記者聖ルカ、聖シモン聖ユダなどの祝日が豊かにあります。
今月2日からシノドス第16回通常総会の第2会期がローマで始まります。この会議の一番の目的は「宣教するシノドス的教会となるには」今私たちの教会は何に取り組み、どのようにあることが必要なのかをシノドス参加者が共に祈り、黙想し、聖霊の導きを識別することと皆に伝えています。シノドスの会議が神様にふさわしい集いとなりますように私たちも祈りましょう。祈るだけでなく積極的に宣教するシノドス的教会となるように共に歩んでまいりましょう。
また今年の12月24日のクリスマスから2025年の通常聖年が始まります。ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」が教皇様によって開かれて始まります。今年はこの聖年に向けた準備のための「祈りの年」となっています。今年は個人的な祈り、そして共同体としての祈りを中心に据えるよう呼び掛けています。教皇様は「この恵みあふれる聖年に備えるように、また神の希望の力を経験できるように、さらに祈りを深めてください。個人的な生活の中で、教会生活の中で、世界の中で、祈りの素晴らしい価値と祈りの絶対的な必要性を再発見するための一年とするためです」と呼びかけておられます。
そして10月は10月7日のロザリオの聖母に因んでロザリオの月でもあります。今月22日に祝う聖ヨハネ・パウロ二世教皇は使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」の中で「ロザリオの珠は、ロザリオを唱えるための道具として伝統的に用いられてきたが、何も考えないで用いるなら、この珠は、単に「アヴェ・マリアの祈り」の数を数える道具にすぎないが、この珠も、象徴的な意味をもっており、観想のための豊かな内容を与えてくれます。ロザリオの珠が十字架へとまとめられていることです。ロザリオの祈りは十字架から始まり十字架で終わります。信者の生活と祈りはキリストを中心として行われます。すべてはキリストから始められ、すべてはキリストへと向かいます。そして、すべてはキリストによって、聖霊のうちに、御父へと至ります。珠の数を数え、祈りの歩みを刻みながら、ロザリオの珠は観想の道も、キリスト信者の完徳への道も終わりのないものだということを示します。ロザリオは平和のための祈りであるだけでなく、これまでずっと、家庭の祈り、また家庭のための祈りでした。この伝統を絶やさないことが重要ですと述べています。この10月をロザリオの祈りを通して、家庭のためはもちろんのこと世界の平和のため、また聖年の準備のために祈ってまいりましょう。
◆平和を祈る
2024年も半年が過ぎ、うだるような暑さが続いております。 皆様、いかがお過ごしでしょうか。教皇フランシスコ様は、2025年を聖年の年と定め、今年、その準備の祈りの年とされました。テーマは希望の巡礼です。国内では、新型コロナウイルス感染症が「5類感染症」とされ、一年が過ぎましたが、感染者はいまなお増え続けています。世界では戦争、紛争、テロ等によって今もなお、多くの人々が命の危険と隣り合わせです。 その結果、日本と同じ人口の1億2000万の人が、居場所を追われ、難民として不自由な暮らしを余儀なくされているのです。それでも私たちは希望をもって、イエスのみ跡を慕いて歩き続けなければなりません。これらの不安と危険から一刻も早い解決の道が開かれますようにと祈り続けましょう。そして、私たちの心から愛が失われないうちに、特に女性や子供たちが平和で安心して暮らせる日々の生活が一日も早く訪れますように、ともに祈りましょう。
◆聖年に祈る
教皇様は聖年が希望ある、意味のあるステップとなるように信望愛の実践を願っておられます。 聖なる年の巡礼により、バチカンの扉をくぐることで、聖ペトロ、聖パウロに触れ、霊的賜物をいただきます。この聖年の年が恵み豊かで希望に満たされますように祈りましょう。苦しみの中にある人々、悲しみの渦中にある人々、嘆きに打ちひしがれている人々を思い起こし、連帯して祈りましょう。そして誰も見捨てられることなく、必要な援助と恵みがありますように祈りましょう。
◆恵みの時に
イエス様は何を見、何を語られたのでしょう。 イエス様は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない空の鳥を見て言われました。「あなたがたの天の父は鳥をも養ってくださる」(マタイ6:26)と。 また「目をあげて畑を見よ。 色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)と。 イエス様のまなざしは、私たちと同じものを見ているのに見方が全く違います。イエス様のこの言葉を聞いて、私たちは勇気付けられ、励まされ、また慰められるのではないでしょうか。世界を見回してみても、希望の欠片も見えませんが、イエス様にとって、この世界はチャンスのとき、チャレンジの時、そしてよき恵みの時なのです。
◆利他の心で生きる
「豊かであったのに貧しくなられた」(II コリ8:9)方こそ、キリストです。 つまり、イエスご自身の持つ豊かさは他者の利のためでした。私たちはどうでしょうか。自分の利益は他者のためにありますか。あの金持ちの青年を思い出してください。彼はイエス様の言葉を聞いて悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからです。多くの人が苦しみにあえいでいます。 多くの方々が悲しみに打ちひしがれています。 来年まで待てません。今、できることがあれば、愛の実現のために連帯し、協力することができますよう、ともに祈りを捧げましょう。
典礼に於いて8月では1日の聖アルフォンソを始め、多くの証聖者、殉教者を祝いますが、任意ではありますが9日に祝う十字架の聖テレサ・ベネディクタ(エディット・シュタイン)という殉教者に注目してみたいと思います。
*ナチス・ドイツによる迫害の殉教者
エディット・シュタインは、1891年10月12日ユダヤ人としてドイツのブレスラウ(現ポーランド・ブロツワフ)で生まれた。この日はユダヤ教の大祝日である贖罪の日であった。彼女は何事にも全身全霊を注ぎ、情熱に燃え立つ女性に成長し、現象学の創始者であるエドムンド・フッサールに師事し、優れた博士論文を発表し、ドイツ哲学界の新進気鋭の哲学者として頭角をあらわすようになった。13歳の時からユダヤ信仰から離れ無神論者を自称していた彼女は、31歳のころ十字架のキリストに出会い、アビラの聖テレジアの『自叙伝』を読んだことがきっかけで、真理を悟り、カトリックの洗礼を受ける。洗礼名はテレジア。ナチスの政策で職を失い42歳でケルンのカルメル会修道院に入会し、1934年テレジア・ベネディクタ・ア・クルーチェ(十字架に祝せられし者)という修道名を受け、カルメル会での修道生活を送りながら、宗教哲学、霊性について多くの著作を執筆した。ナチスの人種政策でユダヤ人への弾圧が始まり、1938年修道会は彼女をオランダに移動させた。1942年7月26日、オランダ司教団がナチスの非人道的行為を非難する教書を公布するも、ナチスは報復として、8月2日にユダヤ人のカトリック信者を強制連行する。エディットと姉のローザもエヒトの修道院から連行される。8月9日、アウシュヴィッツ第二収容所のガス室で殺害される。
*エディット・シュタインの証ししたこと
エディット・シュタインの列福に向けた動きは、当初、ケルンの列福調査委員会は殉教者としての列福を示唆したが、ローマでは英雄的功徳を審査する方向で進んでいた。1983年、ヨハネパウロ二世のもとで、列福・列聖に要する奇跡は各一件に緩和されたが、調査から20年経っても、エディット・シュタインをめぐる奇跡は起こらなかった。1983年、ヘフナー枢機卿は教皇に嘆願書を送り、エディットの死が、オランダ司教館の反ナチス的な教書へのナチスの報復に端を発していることを強調し、殉教者としての列福を求めた(殉教者の場合奇跡の要件は必要ないため)。ローマの審査委員会はこの嘆願を受け入れた。こうしてエディット・シュタインは殉教者に認定され、1987年5月1日、ケルンで列福式が行われた。ところが、列福式の約六週間前の3月20日、アメリカで、ある出来事が起こっていた。それはマサチューセッツ州に住むエマニュエル・チャールズ・マッカーシーと妻マリーの夫婦は、結婚以来初めて子供たちに留守番を任せて旅行に行き、その日、帰宅するところだった。夫婦には12人の子供がいた。家に着くや、二人の年長の子供が走って来て、留守中に2歳のベネディクタの体調が悪化し、病院に担ぎ込まれたことを伝えた。夫婦は、駆け付けた地方病院で、ベネディクタが自宅の薬箱の中のティレノール(解熱剤)を大量に飲み込んだことを知らされた。病状は深刻で、ボストンのマサチュ―セッツ総合病院に移されたが、昏睡状態が続いた。父親のマッカシーは、東方典礼カトリックのメルキト派教会の司祭で
ある。マッカシー家では、子供の名前を、尊敬する聖人や思想家などに因んで名づけていた。ベネディクタという少女は、エディット・シュタインの命日8月9日に生まれたため、その修道名「十字架のテレジア・ベネディクタ」から名前をもらった。医師はさじを投げかけていたが、マッカシー家では、ベネディクタの回復のためにエディット・シュタインが神に執り成してくれるよう、繰り返し祈り求めた。すると3月23日に、ベネディクタは昏睡状態を抜け出し、病状は快方に向かった。やがてローマは、この件について調査を行った。マサチュ―セッツ総合病院の小児胃腸科医師ロナルド・クレイマンが列聖審査の医学班に当時の様子を証言した。クレイマンがユダヤ人だったことは、メディア受けする要素だった。1997年4月、ローマはベネディクタの治癒がエディット・シュタインの執り成しに帰せられる奇跡であると認定した。
列聖の条件が整い、翌月ヨハネ・パウロ二世が母国ポーランドを訪問する際に、列聖式が執り行われる手はずとなった。しかし、同国のユダヤ人団体から列聖に対する抗議が起こった。そのため、当地での列聖式は中止され、翌1998年10月11日に、バチカンで列聖式が行われた。またユダヤ教からの反応は、批判的な見解だけではなく、稀有な運命を辿ったすばらしい知性の持ち主への称賛の声も少なくなかった。大局的に見れば、ユダヤ教徒にとっても、キリスト教徒にとっても、様々な気づきが与えられた機会だったと言える。教皇フランシスコは、2015年に「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」の発布五十周年にあたり、次のように語っている。「子の50年の間にキリスト教とユダヤ教の関係が大きく変わったことは、神に感謝すべきことです。無関心と反感が協力関係と善意に変わりました。敵、見知らぬ人から友人、兄弟になったのです(カトリック中央協議会ホームページ)。しかし、2023年10月7日にハマスがイスラエルへ大規模な攻撃を行ったことにより、カトリック教会とユダヤ教の関係は大きく崩れま
した。ガザ地区でのハマスとイスラエルの戦争が終わる兆しはなかなか見えません。この侵攻の犠牲者が増える一方です。十字架の聖テレジア・ベネディクタの取次ぎを求め、ウクライナとロシアとの戦争、そしてハマスとイスラエル軍との紛争が早く終結し平和が訪れますように祈りたいと思います。
【参考文献】「カトリック生活」ドンボスコ社2020年10月号、「教会の聖人たち」池田敏雄編著 サンパウロ、女子パウロ会HP
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
――ルカによる福音 1章47-49節
トマス 頭島 光 神父
◆マリアと共に祈る
アヴェ・マリアの祈りは、聖母マリア様についてのお祈りのように思いますが、実はイエス様を中心にしたお祈りです。「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます」(ルカ1:28)と祈りますが、ナザレの乙女のところに現れた天使ガブリエルのマリアへの挨拶のことばでした。アヴェは、ルカでは「おめでとう」と訳されている言葉で、古くは「めでたし」と唱えていました。<主があなたと共におられる>。だから「おめでとう」と言われたのです。主は、勿論イエス様のことです。このように、私たちは、いつもマリア様と共にイエス様に祈るのです。
◆エリザベト訪問
次に、「あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています」と祈ります。これはエリザベトの言葉です。エリザベトはマリアの親類で、男の子を身籠っています。マリア様はエリザベトのことを聞いて知っていたので、ユダの山地に急いで出かけ、ザカリアの家に入った時のことでした。マリアの突然の訪問に驚いたエリザベトは、自分のおなかの赤ちゃんが喜び踊ったのを知って、マリアのご胎内の御子に向かって、この挨拶を送ったのです。神の祝福は女の中の女である母マリアより以上に胎内のお子様に集中していることがよくわかります。神の子イエスがマリアを通して肉となった神秘が語られています。
◆時が満ちて
そのときが満ちて、救いが始まろうとしています。おとめマリアはそれを知り、み旨のままに生きることを心から素直にお選びになったのです。神の子が人の子となられた受肉の神秘に立ち会われたマリア様は、まさに「幸せな方」です。私たちは、このアヴェ・マリアの祈りを祈るたびに、救いの喜びに満ち溢れるのです。ですから、祈りの後半は、マリア様への取り成しの祈りになっています。「どうか、罪深い私のために、マリア様、ごいっしょにお祈りください」と。マリア様なら、罪深い私のために祈って下さいます。そして、私たちをイエス様の身許に導いて下さることでしょう。
◆マリア様の強さ
マリア様の信仰の強さは、群を抜いています。十字架のもとに立つ母マリアの姿は、その信仰の強さを彷彿とさせます。息子イエスが十字架の上で死ぬとき、しっかりとそのお姿を心に留めておられるからです。母マリアの目には涙がありません。ただ痛みに堪える息子イエスをじっと見つめる母だけがそこにいるからです。母マリアの祈りは、ただひたすら「み心が行われますように」とだけ祈ります。マリア様は、ただひたすらイエス様だけをじっと見つめます。そして、その祈りの重心は、ただただ神のみ旨のままに置くお方でした。
◆計り知れない恵み
恵み溢れるマリア様は、最も聖なるお方であり、罪も穢れも知らない乙女です。女の中で祝福されたお方です。疑いも、批判も、愚痴も何もないお方。その計り知れないお恵みは、神からの賜物です。マリア様はその豊かな賜物へと私たちを導き、愛する者、信じる者に、そして希望する者に、私たち一人ひとりを変えて下さるイエス様のみもとにお招き下さるお方なのです。